Afternoon Library 

       お気に入りの時間/May

 

2006.5
「下妻物語」嶽本野ばら 「70%の青空」安西水丸 「読書する女」レイモン・ジャン 
「世間のドクダミ」群ようこ 「ちがうもん」「人呼んでミツコ」姫野カオルコ    
「夢のあとさき」村山由佳 「高い窓」「大いなる眠り」レイモンド・チャンドラー  

 

感想文:「ちがうもん」♪♪♪

 姫野作品を好きになったのは「ツ、イ、ラ、ク」(初版2003年)から。実を言うとそれまで、さほど彼女の作品に興味はなかった。

雑誌で連載していた小説を目にし、性的な描写のなまなましさが印象に残ったからかもしれない。けれども「ツ、イ、ラ、ク」には
揺さぶられた。激しさとせつなさ。汚れた、墜ちた関わりと他人に白い目で見られようが、どうしようもなくそこにある恋を描くのに
なまなましいエロティシズムは不可欠。そこに向かって全てが昂まってゆき、せつなさが際だつ。それから遡るように姫野作品を
読んでいるというわけで、「ちがうもん」は2001年刊行の五作品から成る短編集だ。けれど、それぞれの話の主人公は、
@関西出身で現在東京在住の女性 A幼少期は昭和60年代 B育った家庭はどこか冷えている 等々の共通点を持ち、子ど
も時代を回顧しながら物語が展開する。姫野さんのプロフィールを見れば、それぞれの主人公が彼女自身に重なり、モチーフと
なる“記憶”は彼女の記憶にリンクしている、と考えるのが自然だろう。実録ではなく創造物であることはもちろん大前提として。
 
 「育った家庭はどこか冷えている」というのは、例えば「夏休み/九月になれば」の哲子の両親は「不和だと、もはや認識できず
これがふつうなのだと子どもが思うほど冷えて」いて、最低限の言葉しか交わさず、父親は「お母さんはジョウシュ(情趣)の全く理
解できない人だ」とため息をつきながら外に愛人と子どもを作っている。その「妾腹の兄」は母を亡くし、本家へ引き取られるのだが
「ジョウシュをこころえ、なおかつそれが突出するほどではない、健全な範囲におさまったひとあたりは、彼の実母が父と相性がよ
かったのだろうと、正妻にも娘にも納得させるものがあった」人で、父の死後は本家に妻を迎え、哲子の母と暮らしている。
哲子の心に刻まれた鮮やかな記憶は、家族旅行で行った海辺の街とそこで出会った素朴で温かな家族。その兄妹の繋がりを
「夏の太陽よりもまぶしく羨んだ」哲子。名前の思い出せなかったその街が「越前の厨」だという答えは、やはり子供の頃、哲子と
前後して、実母と父に連れられその街を訪れていた兄によってもたらされる。この穏やかな情趣のある兄とならば、厨の兄妹の
ような温かな子ども時代があったかも、「そしたら一緒に厨へ行けたのにね」と言う哲子に兄は「そうはいかんかったやろ」という。
「・・・ヤングの頃は、俺かて、うちのお母ちゃんはあっちの家からするとどうなっとるんやて、お父さんに訊かれへんかったがな。
小さいことに、なんでもかんでも、いちいちひっかかってつっかかって、そのくせなあんも足動かさへん。ほんまにヤングっちゅうの
は難儀なことやで」それから私の方を向いて兄は静かに笑った。「年齢とるとええことも、なかなかぎょうさんあるで」
ただぬくぬくと、ではない。きちんと大人になった人の言葉。受け入れる、ということはちゃんと傷つかなくては出来ないことだ。
そして哲子は兄に教えられた「越前の廓」の海を今度は一人で訪れ、バスに揺られながら、あの当時、今の自分と同い年であった
母のことを思う。「愛する女と息子が他の場所にいる男の妻を長い間引き受けていた彼女」は、当時から「髪を輪ゴムで縛り、ストッ
キングの伝線も気にせず、腹に入れば同んなじやと刺身を食パンに挟んで食べ」るような情趣を欠いた人だった。でも、だからこそ
父との不和も乗り越えられ、離婚をしなかった(その結果の陰が子どもにどう映ろうとも)のは、子を思う情愛からだ、と。
親を許す、等というのはおこがましいけれど、当時の親と自分の年齢が肩を並べた頃、やっと親を理解できることがある。
その瞬間が描かれていて鮮やかだった。
 
二話目の「高柳さん」。この作品が五つの中で私にとってはいちばん印象に残っている。
主人公の佐紀は産まれてからすぐ、学齢に達し鍵っ子になるまで様々な人の家に預けられていた。夜の九時頃、父か母が迎えに
来るまで託児所代わりに他人の家で過ごすのである。「高柳さん」は佐紀が四歳の頃、二週間だけ預けられた一家のこと。
高柳さんの夫婦も、そこの兄妹たちも可愛がってくれ、佐紀はその家の「がさがさした」雰囲気が好きでもあったのに、なぜ二週間
で高柳家と別れることになったのかは、三十年ののちに明らかになる。「高柳さんのおばさん」の情事が露見したのが原因だった、と
佐紀に明かし、「あんな不潔な人」と言う母の眉間で縦皺が黒々と深くなる。
『私は暗い洞窟を見続けた。洞窟にいて、両親は立派だったのである。娘にもまた立派であることを望み、彼らの娘は立派でいること
以外を学ばなかった。異性にさわらず、異性も娘をさわりたいと思わず。』
だからこそ佐紀は「高柳さん」が好きだったのだ。しごく道徳的な倫理観を持つ母のもとで育った私に、その気持ちはしっくりくる。
『高柳のおじさんに接するときに私が感じた、あの温暖(ぬく)とさは、彼のかなしみだったのだと思う。妻を寝取られている自分への
かなしみではなく、間男をする妻へのかなしみ。おじさんはおばさんのことがとても好きだったのだ。』
『おばさんもおじさんが好きだったのだろう。彼らは動けば汗の出る男と女で、彼らの家には私の家にはない、だらしない温暖さがあっ
た。』・・・なまなましくて、だらしなくて、汗のにおいがして。『でもね、色気の正体は不潔感なんだよ』と、佐紀は母に言わずにおく。
『多くの時間を失った後だから、私は彼らのだらしない温暖とさにほほえむことができる。両親の結婚の不運を、それもまた彼らの生き
方だったのだと思うことができる』。この言葉にまた私も救われた。
秘めごとは秘めごとのままが色っぽいと思う私は、あまりに露悪的で赤裸々な会話や態度には辟易してしまうし、わざわざ下卑た表現
をするのも子どもっぽくて鼻白むけれど、きれいごとではない部分にこそ在るものを理解する、許せる程度には大人になったのだ。
 

 

感想文:「70%の青空」♪♪♪

 音を感じる文章を書くひとと、絵画的な文章を書くひととに作家を分類するなら安西水丸さんは

紛れもなく後者だ。安西さんはイラストレーターであり、作家である。
この小説に描かれている風景や人物はありありと脳裏に浮かんでくる。細やかで丁寧、そして
読む人に直接届く「絵」。この本を読んだ人は、きっと私と同じ絵を見ているだろうな、と思える。
その基調となる色合いは、カラーチャートでいう「70%の青」だろう。
物語の舞台は1964年、東京オリンピックの年から始まる。主人公は広告代理店に勤務している
グラフィック・デザイナー。作者自らが「傷の時代」と呼ぶ頃の、作者に重なる青春小説である。
 
 物語の基調をなす、薄青いような哀しみの色は、主人公にとって「性欲の対象とばかり考えて
はいなかったが・・・それでいいとも思っていた」女・ヤエ子の色だろうか。ヤエ子はひとことで言う
なら“哀しい女”である。でも、そう括ることが何か不似合いに思えるのは、彼女が哀しみを背負っ
ているのではなく、まとっているように感じるからかもしれない。どこか覚悟した哀しみなのだ。
主人公を部屋に招き、彼女は「ねえ、わたしになにかできる?なにもないとおもうけど、あるんだっ
たら言って。わたしなんでもしてあげる」と言う。そうして彼に体を開く。幼い頃から足が不自由で、
貧しい環境に育ったヤエ子は、その生命が尽きるときも哀しいほどあっけない。彼女の墓に主人
公が泣きながら「よかったんだよ。ヤエ子さんなんて、あんたのような女なんて、生きていたって
いいことなんてないんだよ」と投げかける言葉にも、ヤエ子は微笑みを返すのではないだろうか。
彼女は自分に似合う色をまとって、その色にふさわしい人生を送ったのだと思う。
主人公の前に現れるもう一人の女・文里(あやり)の色は、雨の中でも金色に光るミカン色。
鋭角的な才能に抉られるかのように体を蝕まれていく正木はクロッキーのような黒墨色。
登場する人々のそれぞれの「色」が、ひとつの時代を描きだしていく。
 

 

感想文:「読書する女」♪♪♪♪

 フランスの映画が好きだ。ハリウッドの豪華絢爛でアップテンポな映画を好む人にとっては退屈きわまりないと

思われる、フランス映画の気怠い時間軸が私にはなじみ深い。「読書する女」はミシェル・ドヴィル監督により、
ミュウミュウ主演で映画化されている。映画の方はまだ観ていないけれど、この本からはたっぷり映画的な空気
を感じることができた。
 主人公のマリーは三四歳・既婚・子供なし。コンセルヴァトワール(国立演劇学校)の出身で、素晴らしい声と
彼女が《音響室》と呼んでいる青い部屋を持っている。専業主婦のマリーは、その声を活かして出張朗読をする
べきだと友人に勧められ、『若い女性がお宅にて本をお読み致します。文学書、ノンフィクション、その他なんでも』
と広告を出す。そして彼女の朗読は、依頼してきた五人の“お客”それぞれに、様々な反応を引き起こす。
読む「文字」に対する、聴く「言葉」の持つ不思議な力。声という肉体的な表現によって、読書とはまったく異なる
印象がにじみだし、本は新しい命を持つ。視覚的な日本人に対して、聴覚にこだわるフランス人らしい発想だろう。
 身体が不自由で学校へ行くことのできない十四歳のエリックに、マリーが読んだのはモーパッサンの「手」
幻想的で恐怖と不安に満ちた物語を聴きながら、スカートからのぞくマリーの膝を食い入るように観ていたエリックは
その恐怖が最高潮に盛り上がったところで悲鳴を上げて失神する。病院に担ぎ込まれるエリック。母親は激怒するが
でもエリックは朗読に来るのをやめないで欲しい、と懇願する。マリーの声を聴きながら、その足にみとれることは
彼にとってこの上なくセクシャルな行為なのだ。文学への興味が高まるのと同時に、高まっていく性への関心。
エリックの視線と興奮を意識して、自分の息づかいが早くなっていることを感じながらも読み続けるマリー。
 視力の落ちた八十歳のデュメニル将軍夫人が朗読を所望したのはなんとマルクス。ハンガリーの伯爵家出身で
思いっきりブルジョアな彼女は、マリーの朗読で昂揚し、とうとうメーデーのデモ行進への参加を決行する。
キャリアウーマンの多忙な母にかまってもらえない少女・クロランドには「不思議の国のアリス」と、冒険を。
離婚から立ち直れず『集中して読むことができない』大会社社長・ドートランには「実物教育」とアバンチュールを。
「読む」ことで始まった彼らとの関わりは、そこに留まらず体温のある関わりへと移行していく。それでも必ずそこには
「読むこと」が介在している、というのが妙に生真面目で滑稽だ。
 そして。街の名士・老判事から所望されたマルキ・ド・サドの「ソドム百二十日」。一杯食わされた!と思うマリー。
この希望に彼女がどう反応したのかは、ここに書かないでおく方が良いのでしょうね。
 

  

感想文:「下妻物語」♪♪♪♪

 面白かったですねぇ。いや、ほんと面白かった。食わず嫌いはいけないな、と

深く反省させられた本であります。
「食わず嫌い」理由その@ 嶽本のばらと言えばロリィタ。乙女の世界には縁遠い私。
         理由そのA 深田恭子主演で映画化。深キョンはあまりタイプじゃない。
こんな理由から「食わなかった」のだけれど、週刊文春で連載している小林信彦
さんの「本音を申せば」で映画が絶賛されていて、小林さんに信頼を寄せている
私としては「観るべし!」となったわけで、そして観たらば・・・面白かったのだ。
深キョンも乙女な姿で頑張っていたけれど、土屋アンナが良い。で、あるならば、
本も読んでみよう、となったわけで、そして読んでみたらば・・・面白かったのだ。
プッと吹き出すこと必至のギャグも満載。第一、時代遅れの特攻服でバリバリに
きめたヤンキー娘と、乙女全開のロリータちゃんという組合せの妙が面白すぎる。
そして、砂糖菓子のように甘い雰囲気を醸し出すロリータが、けして「甘くない」
ということに気づかされた時点で、嶽本のばらさんに脱帽。イチゴの言葉を借りる
ならば、ロリータは「何時も一人で立ってるんだよ。誰にも流されず、自分のルー
ルだけに忠実に生きてやがるんだよ」なのである。そして、孤高のロリータ・桃子
とヤンキーの王道を行くイチゴという正反対の二人が、それぞれそのままに、歩み
寄ることもしないままに、友情を育んでいくストーリーにはじわり、と感動した。
 
 『真のロリータはロココな精神を宿し、ロココな生活をしなければなりません』
竜ヶ崎桃子の一人語りで始まる物語は、終始桃子の視点から捉えられる。
頭から爪先まで隙なくロリータファッションの桃子が「田んぼ、田んぼ、古今東西
田んぼ」な茨城県の片田舎・下妻にやってきたのは「駄目親父」のせい。「住民の
ほとんどはヤンキーか元ヤン」の兵庫県は尼崎市で生まれた桃子の、父はやはり
元ヤンで、おまけに怠け者。何をやっても続かず、これでは人間としてあんまりだ
ろうと一念発起、真面目に働こうとして暴力団の門を叩いた、という人。地元のス
ナックに勤めていた母と出来ちゃった婚をして、家族のために儲けようと組のお金
に手を付けたのがバレ、指をつめることになれば「こ、小指がなくなると、ピ、ピア
ノが弾けなくなる」と突然(ピアノを弾いたこともないくせに)泣き出し「ピアノが・・・
ピアノが・・・」と泣きじゃくりながら失禁して組をクビになったという程ダメな親父。
母は母で、桃子を出産する際に担当の医師と分娩台の上で恋に落ち、桃子が小
学校に上がる頃、家出してその医師の元へ。母が桃子を一緒に連れて行きたい、
自分だけいい思いは出来ないと言うのに対し、答える桃子のセリフが格好いい。
『山を歩いてて、金の鉱脈を発見して、そこを掘らずにみすみす見逃して通りすぎるのは
只のアホだと思う。偶然、そんなラッキーが自分の目の前に現れた時、自分だけが楽を
して得をするなんて狡いと考える、そういうのは欲がないというんじゃないと思う。突然の
大きな幸せが舞い込んできた時、人はその幸せを前にして急に臆病になる。幸せを勝ち
取ることは不幸に耐えることより勇気がいるの。大切なものを見つけたら、それを絶対に
手放さない、守り抜く。たとえ、他の大きなものを失うことになろうと。だって、本当に大切
なものに巡り合えずに死んでいく人だって、沢山いるんだからね。甘えてちゃ、駄目だよ』
こんなことを言いながら、母に背を向け帰りつつ、『最後の「甘えてちゃ、駄目だよ」が効い
てるよな。・・・この突き放したような台詞があることによって、前の説教臭い台詞が活きて
くるんだものね。でも、ランドセルを背負いながらだったからイマイチ、迫力にかけたか?』
などと分析する桃子。でも、この言葉は幸せになるための「覚悟」を訴えている。
そうなんだ。大切なものを手にするためには選択しなければならないし、それを
守り抜くためには覚悟が必要だ。いい人と思われたい、嫌われたくない、なんて
甘えてちゃ駄目だ。こんな超利己的な桃子が、バッタ屋を始めた父の失敗(ヴェ
ルサーチとユニバーサルスタジオジャパンのWネームというバッタもん製作)の
せいで下妻に住む祖母の元へ親子で身を寄せ、「覚えてやがれ、こん畜生!」
喧嘩に勝った時の決め台詞だと思っているくらい頭が悪く、特攻服の背中には
「御意見無様」(無用、ではなく)と書かれているダサいヤンキーのイチゴと出会う。
『・・・ヤンキーのさらしとロリータのコルセットって、必然性は同じなのかしらん。そんなの
ちょっと嫌だ。でもヤンキーのファッションやバイクって、過剰な足し算の美学で成り立って
いるし、それってロリータの美学と同じといえば同じだしなぁ・・・』
それを共通点と呼ぶのかどうか、とにかく不釣り合いな二人はなぜか行動を共に
するようになる。情にもろく、「ダチ」だと思ってもらいたいイチゴが「お前にとってさ、
あたいって何だと思う?」と訊けば、「趣味の悪い田舎のヤンキー」と答えるような
桃子なのだが。ラストは感動。二人の甘くない友情に拍手!
 

 

 

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